北海学園大学演劇研究会まとめ~ポジ×ネガのワンツー~
私は幼稚園の時にSMAPを好きになってから、思春期の頃には嵐を好きになったり、周りの子と同じようになんとなくジャニーズを好きになっていくありふれた生活をしていました。
そんな時、彗星の如く現れたのが、面長で天パのとてもイケメンとは言えないよく喋る男だった。
当時、水曜深夜に嵐の番組『Dの嵐』が放送されており、私はそれを毎週録画していました。親があまりテレビに興味のない人だったため、お年玉など自分のお金を貯めて買ったレコーダーは、今では当然のようにある毎週録画機能がついていない物。番組表が出ている限り先の録画予約をいそいそとしていたわけですが、ある時ボタンを押し間違え、日本テレビではなくテレビ埼玉を録画してしまったことがありました。
そして、その当時水曜深夜にテレビ埼玉で放送されていたのが、『水曜どうでしょう』だったのです。
たまたま録画してしまったその回は、あの有名な「一生どうでしょうします」宣言の回で、風邪をひいていて明日も早いのに寝るのを邪魔された男の文句がずっと流れていたのだが、立て板に水とはこのことだ!とそのトークに度肝を抜かれた。彼が舞台役者であることも大きいと思われるが、コメディドラマでも無いのに噛まずに面白いことを面白いテンポで話す人間を初めて見た衝撃は今でも忘れられない。
そして毎週『水曜どうでしょう』も録画するようになり(ありがたいことにリピート放送をしていたので、カブの旅が終わった次の週にサイコロ1が番組表に載っていた時にはとても嬉しかった)、あれよあれよという間に大泉さんだけでなくTEAM NACSにハマっていた。理由は分かっている。5人組だったからだ。SMAP、嵐を好きになった私が大好物の基本データ。
リーダーがリーダーと呼ばれていて、上二人は夫婦のようで、自他共に認める双子みたいな仲良し二人組がいて、みんなからいじられ可愛がられる末っ子がいて。ジャニーズ5人組グループと似ている部分も多い彼らだが、彼らにあって、ジャニーズに無いあることがとても魅力的だった。
それは、芸能活動で出会ったわけではなく、普通の友達から始まり、自分達で仕事仲間になることを選んだということ。
私は友達と仕事をしようと思ったことはまだないし、彼らの友達としてのスタートはハタチ前後の大学時代。小さい頃から一緒だった訳ではないのに、どうやってその絆が生まれたんだろうか。
これはかなり興味深い事だった。とても探究心を引き寄せられる事実。そして確かに垣間見える、仕事仲間ではない親友に戻っているように見える瞬間。
こうしてどんどん彼らのファンになり、詳しく知りたいと思った際にある一点がもどかしいと感じていた。それは情報が少ないということ。
ジャニーズ事務所に所属しているタレントには莫大な数のファンがいて、中には「歩くジャニーズ百科事典では?」と思うほど詳しい人も少なくはない。しかし、TEAM NACSは北海道のローカルタレントだ。いくら全国公演の舞台で7万人を動員しようとも、きたえーるや真駒内アイスアリーナを満席にできようとも、主演映画がヒットしようとも、5人揃うレギュラー番組は北海道でしか放送していなく、私が好きになった2004年当時は多いとは言えないファンも貴重な人材でだった。
ジャニーズの場合、エピソードなどは誰かがまとめてくれるだろうと思っていると誰かがまとめてくれたりするし、自分が好きになったのが遅くとも、好きになる前の若い頃の姿を見る方法は大いにある。しかし、しがないローカルタレントは全てが貴重になってしまうのだ。「あれ、あの話いつのラジオだったっけ」なんて思って検索して見ても出てこないことも沢山ある。
ならば、己を信じて己を百科事典にするしかない。いつ見たってグッとくるエピソードを、いつも見れるようにしたい。 そう思って、この文章をまとめることにした。
かなり前置きが長くなりましたが、いよいよ始めます!映像からの引用は多少言い回しが違うかもしれませんがご容赦を。
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1990年4月
高校時代に物凄く燃えたのが学校祭。その時からリーダーでした。とにかく学祭が好きだったり、あと僕バンドも趣味でやってたんで、準備をして仲間たちと一緒にやれることがいいぞ、と思ってて。そういう意味で考えていくと選択肢の一番最後の方に「あぁ、芝居っつーのもあるなぁ」と思って。で、選択肢の中で考えていくと、「一番総合的にできるのは芝居だなぁ、そういえば昔から学芸会とか好きだったぞ」と思って。じゃあ、やってみようかって*1
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1992年4月
余談として、後に年表で話しますが大泉さんが東京の大学を目指していて、一年目に受かったけれどお兄さんの早稲田を超えたくて浪人二年目を選び、失敗して学園大に入ったことと、戸次さんが大学には行かずに東京に行って芝居をしようとしていたけどお母さんに泣いて止められて渋々地元の学園大に入ったことは有名ですが、(追記)音尾さんは芸大に受かっていたけれど、ご両親の反対で渋々北海学園へ。*3入学理由を聞いたことのない森崎さんは指定校推薦で「あんまり勉強せずに大学生活も楽しめるちょっとレベル下げた大学」に入ろうと思っていたのではないかと思っています。レベル下げたといっても、就職に影響なんて全くしないちゃんとした大学ですし、私的にみんなの出身高校の偏差値を考えるともうちょっといい大学も目指せたはずだと思うので、納得がいきます。(出身高校の偏差値見ちゃう気持ち悪さすいません)それもこれも大学で出会って共に演劇を始める運命だと思っていますし、何より出会う前からみんな同じくらいの偏差値のグループって個人的にちょっと面白い。
戸次:胸まで髪の毛があって、丸い眼鏡をかけて、汚いカーキ色のジャンバーを着て、布テープで『ヤス』ってデッカく書いてある小豆色の紙袋(通称:ヤスバッグ)をどこ行くにも持ち歩いてて、とにかく気持ち悪いんだよ!*4
↑本物のヤスバッグ。『ヤス』の間に破けたの補強してるから『ヤノス』に見えるのがツボです。
↑当時を再現した安田さん。これは気持ち悪い。(失礼)
安田:その時学園祭で、ぼくは焼きそばを焼いていたんですよ。で、隣がちょうど演劇研究会で。すごい楽しそうに団子を売ってたんです。それがすごく明るくてね。「あ、ここちょっと楽しそうだ」と思って演劇研究会に入った。
正直、飽きちゃったら終わりだと思っているんです。だから普段もなるべく別の行動をとっていたほうが、一緒に何かをやるときに楽しいような気がして。(中略)『一緒に暮らしていても、初めて知ることってあるんだね』というようなセリフがあったんです。その感覚がすごく素敵だと思うし、僕自身そういう発見をしていきたいんです*7
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1992年12月
安田顕、演劇研究会に入部。
ついに二学年差(追記情報)2回目の2年生の森崎さんと安田さんが出会います。森崎さんすでに留年済だった(笑)。
安田:「おう、君が安田か」なんて言いながら、どしどし入ってきたのを覚えてますよ。ジーパンの中にシャツを入れて、ジャケット着てね。あの頃は、仲間から「野獣」って呼ばれるくらいエネルギッシュな方でね。それが今じゃすっかり落ち着いてしまって……なにせパソコンのデスクトップが石庭ですからね。
全員:ハハハハ。
音尾:侘び寂びの世界に入っちゃった。
安田:それに趣味は、朝の散歩ですから。
戸次:最近は、食べるもの全部「しょっぱい」って言ってるしね。
大泉:あと、どこに行っても……。
全員:「寒いなー」(笑)。*8
リーダーとしてみんなを引っ張ってきたぶん、大変なことをいっぱい経験して、僕らの倍近く生きてきたと思うんです。だから年齢以上に落ち着いちゃったのかなって。*9
森崎:あいつはもう一枚脱いだから「これは変態だ」と。
全員:ハハハハ。
音尾:じゃあ、先輩が無理やり脱がせて、クセになったとかではなく……。
森崎:もちろん自発的ですよ。だんだん彼の中で自我が芽生えたんでしょうね。「オレはもっと上にいけるぞ」と。そしたら、オレたちが恥ずかしくて脱げなくなっちゃって。
大泉:まあ、そうだろうね。全部出すヤツがいるのに、パンツで終われないよね。
森崎:懐かしいなぁ、あの頃。*10
安田:いや、意外と…周りを緩和する役じゃなかったですか?ぼく。
森崎:誰と喋ってもちゃんとうまく順応してもらえるような感じでしたよね。究極の新入りでしたよ。
安田:こういう言い方はすごく語弊があるけど…当時、森崎さんって同期からイジられる方だったんですよね。なんかトラブルがあると「森崎のせいだ」みたいな感じになっちゃうわけですよ。なぜかね。そういう中でもぼくは、まぁ自分のことを褒めてもあれだけども、その同期の人たちとも仲良くして、森崎さんにも手を差し伸べるっていうかねぇ。
森崎:そう、当時はうまくいかなかったんですよ。ぼくはよその劇団で新しいモノを持ってこようとしてたりして、それでちょっと仲違いがあったりして。でもそんなのを安田さんがすごくフォローしてくれて。「いやー、いい人じゃないっすかー」みたいに振る舞ってくれて、それで見事に調和してくれてたよね。ぼくはもう、そんな顕ちゃんの苦労は全く知らずに「とにかくお前、ウチで酒飲むか?」みたいに、顕ちゃんを毎日ウチに呼んで酒を飲みましたね。
安田:飲みましたなぁ。*11
安田:この10年常に僕はネガティブなことばっかりあなたに言ってきたじゃないですか。でもどうですか?ともに歩んでいるわけでしょ(笑)?あなたはずっとポジティブに頑張っているわけでしょ?そのあなたと一緒に僕はずっとネガティブなことを言って、でも同じ道を歩んで、一緒に階段を上ってるわけじゃないですか。究極のポジネガティブだと思うんですよね。森崎:あ〜〜安田:そうでしょ?森崎:よく分かりませんが…だからともに歩んできたんですかね?ポジとネガで。安田:普通はやれてないでしょ?*12
劇団コンセプトは「ストーリー性のあるドリフターズ」であり、劇団名のOOPARTSとは「アウト・オブ・プレイス・アーティスツ」の略としていたが、これはオーパーツに考古学上の「場違いな工芸品」という意味があることから、そこからもじって「場違いな芸人達」というコンセプトで札幌演劇界に新しい風を送り込んだ。
Wikipediaより。
当時300人収容の札幌本多小劇場や倉庫などの芝居小屋が当たり前だった札幌演劇界の中、700人収容の道新ホールなど大ホールで公演。地元北海道では「1000人の客を集められる男」として演劇界にその名を知られた。
(追記情報)2回目の2年生の時、定期公演を観に来ていたイナダ組の人に声をかけられ、『バブリスト』で客演として参加。これまでの演劇概念をみごとに打ち壊され、世界観が変わったと感じた時期であった。*14
新鮮でした。普段、メイクなんかしませんからね。ドーランを塗ったり、スポットライトをどーんと浴びて。すべてが新鮮でした。*15
安田:リーダーですよね、役割は。森崎:はあ、リーダーです。お前は不動のサブリーダーです。*16
*1:『LOOSER~失い続けてしまうアルバム~』特典DVD「NACS CAMP2004」
*2:『ハナタレナックス特別企画 演劇ユニット TEAM NACSの真実』
*5:ファンクラブ会報2006年9月号、および『TEAM NACS TEN』より
*6:ラジオ『NACS GOTTA ME!』2004年5月22日放送
*8:『下荒井兄弟のスプリング、ハズ、カム。』パンフレット
*10:『下荒井兄弟のスプリング、ハズ、カム。』パンフレット
*11:ファンクラブ会報2006年9月号、および『TEAM NACS TEN』より
*12:ファンクラブ会報2006年9月号、および『TEAM NACS TEN』より
*13:『NACS GOTTA ME!』2002年1月5日放送
*14:会報2003年12月号
*15:『LOOSER~失い続けてしまうアルバム~』特典DVD「NACS CAMP2004」